40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

12/17、中年初老で絶望系陰キャの幸せの形

幸せって何か?

 

幸せってのは簡単な話、感謝できるのか、できないのか。

ただそれだけ。

 

銭がないと幸せじゃない、

誰か彼氏や彼女がいないと幸せじゃない、

結婚できない、家庭を持てない、子供が持てないと幸せじゃない、

車や家がないと幸せじゃない、

裕福じゃないと幸せじゃない、

 

全部、それがないと感謝できないってだけ、

感謝する気が起きない、有難く思えない、ただそれだけである。

 

嘘でいいから、

感謝の念を抱いてみたり、

感謝の念を抱けなくても無理りにでも

感謝の念を抱けることを想像したりすると、

 

あれ?結局これでいいんじゃないの?これ以上あるか?

幸せってこれのことだよね?

幸せに生きるっていうことはそういうこと?

(感謝の念を抱きながら生きるということ、毎日感謝すること、毎度感謝する、感謝癖

で生きるということ)

なんじゃないのか?

って気づく。

 

オレも若い頃から散々幸せは求めた。

毎度幸せは求めてた。

当然その中に感謝すること、感謝しなさい、感謝の言葉をいいなさい、百回言いなさい

なんてあったけど。

正直、一時は幸せになりたいが為にやってみても、それにおける理解が及んでないせい

か、幸せの形ばかりに拘って叶わないそれに飽き飽きし面倒になって続かない。

絶望系陰キャの思考として、こんなのきれい事、嘘だろって思いが内心ではあったり。

 

人に世に習い、結婚してみたけど(離婚したけど

離婚の話になる前の普通の笑いが絶えない家庭の状況でも、

好きな人と生活を共にする状況、環境でも幸せかどうかって聞かれると

楽しい、はそれなりにあったが、時折に感じる刹那系の悲しみや切なさ寂しさは絶えず

起こるし。

結婚してみて分かったこととして、

結婚それ自体に幸せは存在しない。

それだった。

 

幸せは、感謝することで起こる感情、心境、心の様であることを知った今は、

結婚し妻がいて子供がいると一人でいるよりはその分、その人や事象に感謝する機会が

あるので、結果として結婚=幸せを感じれるって理解した。

銭や家や車や人間関係、全部その類である。

持ちたいなら持てばいい、ただし持った時に感謝できないと持ったところで幸せになら

ないし、なれない。

 

オレの様に何も持てない人、何も持ってない人、

絶望の末に何も持つ気さえは起きなくなってしまった人は、

今ある何か、今のちっぽけな生活でいい、そのちっぽけな生活の中の何かを見つけては

感謝すれば、またはその気になったら即幸せになれる。

今に何もないのなら記憶の過去へ飛んでいき、

一生懸命育ててくれた父や母、祖父や祖母、または子供の頃に飼っていたペットでもい

い、愛用していた無機物だっていい、なんでもいい

 

例えば親なら、時にどんな思いをし時にどんな感情を味わいつつ、例え親だからと仕方

ないこととしつつも、それでも養い続けたことやその心に想いを馳せてみる。

想像ではありながらも自ずと頭が下がる。

順風満帆な人などいない。それは親にも当てはまり、その親でさえ自身が幼き子供であ

ったばかりに気づかなかっただけで。時に悩み苦しみ悲しみ、時に屈辱を味わいながら

も養ったであろうそれ。子と家庭、そして未来にどんな希望を抱き頑張ったろう。

想い馳せれば、面目ない程に不甲斐ない自分で心を痛める人もいるだろう。

オレもその一人だ。オレの場合こう言うしかない。

希望に沿うことはできませんでした、希望は叶わずじまいで申し訳ありません。

ただ、養い育てた苦労は分かりました。ありがとうございました。

 

今に感謝を想うものがなければ、良き時代へ飛び何かに感謝を想えば幸せになれる。

過去を振り返るな、なんてよく言うが、今に幸せを感じれないなら、

いっそ過去に浸りき、過去に落ちてさえも感謝できるならその方がマシである。

どのみち感謝という幸せで満たされたなら、

感謝=幸せで満たされたその人は過去よりも今に生きることをするのだから。

だから感謝癖なんかついたら、もうその人の人生はその時点で幸せな人生が決定したよ

うなものである。

 

因みに、更にオレの様に絶望系陰キャ

世に汚さなや理不尽を見て、人に醜さや愚かさを見て、生に残酷と悪を見るが、

それでもそんな中で生きる健気な者を想えば感謝できる。

 

昨今は寒い。

そしてオレは初老ではあるが、何の因果か坊主のような頭であり

この寒さはその坊主頭、スキンヘッドにとっては寒いではなく痛い。

外で買い物すれば頭痛で痛い。

家の中、布団で寝ていても丸裸の頭のせいで風邪になる。

通りかかった100円ショップでニット帽が100円で売っていた。

物を確認すると、防止の中身はフリース素材だ。

有難い。

頭が丸裸のオレにとっては、ニット帽でも中がフリース素材でないと、

装着したときにニットの冷えた温度で装着時に嫌気を想うんだ。

こんなのが100円で買えるのか?

ニット帽で薄っぺらで中に何も細工がないものださえ数年前に買ったら千円したのに?

オレは有難く買ってレジでタグを切ってもらいその場でかぶった。

あったかい!生き返るようだった。

その帽子をかぶりながら、帽子について考えた。

どうしてこんなに安く買えるのか?

オレは洗濯してもその間別な帽子をかぶれるよう二つ買っていた。

もう一つの帽子はタグが付いていて、MADE IN CHINAの文字が。

なるほど。。。。

ニュースでも結構大題的にやっていたウィグル自治区だったりな、

弱き部族を強制的に働かせ安く卸した例のアレの類かもしれないと思った。

過去のアジアを食い物にした白人神話、白人絶対至上主義の現代版である。

もしくは貧しいどこかの東南アジアで生産したものであるとか。

 

絶望系陰キャならではの思考過程で、世の汚さや醜さを想い、そこに視点は注がれた。

もしそうだとするならば、そこで働かせらている人、女性や子供はどんな思いやしんど

さを耐えているのだろうと想い憂う。

 

この世は汚くも醜く修羅の世のようなものであり、世とはそういうものであるが為に

正し直すことはできないが、このような良い帽子を手にして尚、その人々に感謝もせず

にできずに世を愁い、憂いでいてはその人々や致した思いも浮かばれまいと。

世に悲しみ憂う前に、過酷な中仕方なくであってさえも作る事に力を注いでくれた人々

に感謝せずにはいられない。

 

過酷な労働環境、生活環境を強いられた為に、致しかなくでもそれに耐えて作っくれて

て有難う。おかげで寒さをしのぐことができております。有難う。

 

そう想って100円のニット帽と人々に心より感謝したとき、

心か何か(言葉が思いつかない)に満たされ幸せを感じた。

 

絶望系陰キャやその視点は自然と悲しみが多い。

だが、その悲しみは同時に裏を返せば感謝できることであり、

それは絶望系陰キャの感謝の念を想起させる起爆剤となる。

 

絶望系陰キャの感謝の念、想い=幸せ、の道や形となるのである。

 

 

この場を借りて、

ここまで読んでくれた人に感謝します。読んでくれてありがとう。

また、定期的に訪れ、星の様な何か?押してくれてる人に感謝します。

いつも読んでくれてありがとう。

おかげで励みになっています。ありがとう。

 

感謝することや事象に、尽きるや無い、ということはない。

探せばすぐに見つかる。

 

 

そういえば、感謝をしなさい、言いなさい、毎日百回言いなさい、なんてことをした

過去を思い出したら、感謝したいけど思ったように出来ないなんてことがあった。

感謝するべき人なんだろうけど、なんか感謝を想えないって言うか。

例えば親や妻や旦那とかそうだ。

感謝するべき人なのに、心から有難く思えない。

 

それはね、ただ近づぎすぎてるだけなんだ。

当たり前にある空気が当たり前にありすぎて特別に思えない。有難く思えないと同じ。

有難く思えない己が冷血でもなくダメなわけではない。

適度な距離か心理的に遠くに離れればいいんだ。

 

人にとって、一人の時間が大事っていうのは、それのこと。

 

オレのことで言えば、相場に近づきすぎると相場に何も思えない、

相場で得てる何かに想いをついつい抱けない、感謝できないから幸せに感じない。

だから想いを馳せることが出来る距離まで、相場との距離感を保つ必要があって。

時々近づきすぎてると感じた時には、相場をやらないようにしたりして相場から離れる

ことをする。

望ましい距離感で相場があると、相場と関係を持つことで得られる様々な事象や経験に

感謝を想える。そして己の人生が、相場人生であったことや相場と出会えたことが幸せ

だったと、とても良い人生だったと想い死ぬことが出来る。

 

感謝できない、有難く思えないのは、近づきすぎてるだけだ。

 

だから感謝するべき人に感謝の念を抱きたい時は、

物理的に距離を置くのも、精神的に距離を取るのも、どちらでもいい。

程度適した距離や時間をとればいい。

 

 

あと、感謝すべき人や事象を考えたら、いっぱいあって、

幸せになりたくて、片っ端から感謝するってこともあまり意味はない。

それよりは、本当に有難いと思えること、思えたことを一つだけ深く々何度も感謝する

方が良い。

薄く浅く広く、感謝したって心が入ってないのは、感謝してるそばから忘れ消えてい

く。形だけで機械的なやった体で数だけ重要のやっつけ仕事のような感謝のふりは癖を

つける意味で少しばかり役に立つかもだが、でもやっぱり身にならないと思う。

それよりは、有難い、ありがとうと心から少しでも思えたことを、

何度も思い返してみたり、その度に深くその人や事象に想いを馳せてみたりすると、

観単には動じない忘れない、どっしりとした感謝=幸せが心に鎮座する。

 

繰り返せば、

幸せとは、感謝したことで起きる心の感情、心境、心の様である。

従って、幸せとは感謝、感謝とは幸せ。

 

吹けば飛ぶような薄く浅い広い数だけの感謝は、心に度々吹いてる荒らしのような感情

でたちまち全部飛ばされる。重くどっしりとして根を張ってる様な感謝は心に吹く荒ら

しでも立ち退かないし折れもしない。

よって、本当に心の少しでも籠った有難いと思えること、

気持ちの入っっていった、自身で納得した有難いと思えたことを、

何度も何度も思い返してはする方がうんと良いのである。