40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

12/18、逞しき絶望系陰キャ

オレの命が尽きるのも多分もうすぐだろう。

 

理由がないが、何故だか幼き頃からオレは早死にすると思ってる。

10数年前に離婚したが、離婚することも幼きオレは知っていた。

離婚したとき、幼きオレの預言は的中したのかとドキッとしたもんだ。

 

幼きオレの預言通りなら、40代で死ぬはずだ。

今のオレの年齢は・・・・・あれ?何歳だっけ?たしか48か49だ。

35付近から歳を数えることに興味がなくなり、

気にすることも、特段意識を向けて覚えることもなくなって。この有り様である。

47ではないと思うんだよなぁ?・・いや・・・感覚的になんだけど。。

 

まぁ、言うて2年か3年の違いなど、あってないようなものじゃろ?

近いうち死ぬだろうに違いはない。

 

最近は株日記でも書いたが、動悸がしていて。眩暈もおさまらない。

これまで一時なんてのは、運動した後や悪い姿勢の時や何かの拍子でとか、

あったりしたんだけど、

3日ほど続いている動悸や眩暈なんて始めてだ。

昨晩なんかはこの不整脈が突然止まったりして死ぬのかな?

そんな思いをしながらも寝たが、生きていたようで朝起きた。

あ、血圧が高いのかもしれないなぁ。

過去に夜勤をしてた時は血圧200オーバーだった時がある。

眩暈やふらふらは血圧がぶり返してるのかもしれない。

あとで興味本位で調べてみようと思う。

 

 

死ぬことを想えば死ぬ前に、人生かけて試行錯誤を繰り返し、やっとの思いで築き上げ

たトレードの技、錬金術を生き別れた娘たちに継がせ一子相伝の技としたい気もあった

が、どうやらそれも叶わないようだ。

女性は子供を産むために社会から離れねばならない立場ゆえ、こんなものが役に立

つのではないだろうかと思ったが。オレがつきっきりで教えても5年は費やすだろう

し、6歳、4歳で生き別れた後はまったく会ってないし、どこにいるやも分からない。

やっぱりこのまま会うことはないのだろうなと思う。まぁ別にいいけど。

 

全て失ったとを承知してる絶望系陰キャにとっては、

もう既にないもの、元からないものである。

会えないことや継げないことなんて、別に痛くもかゆくもない。

今のまま、ありのままである。

こんなことを言うと、そんなの嘘だ、会えないなんて辛いに決まってる、強がってるっ

て言われたことがある。

だが、関係を持っている、子供がいると思えばそうなるだろう、それが人の性だ。

実はオレだって生き別れた当初は人らしくそう思ったよ。

辛かったものだ。そして、引きずってると辛いだけだ。

そして、こんな辛いならどうせ会えない訳だし、いっそその関係を捨て子供なんて

いないとした方が良かったし、そうするしか方法はなかった。

それ程に人として辛いものであることは知ってるつもりで、だからそうなったんだ。

自身が辛いからとて意地でも子供探しだし連れ出したりしたら、落ち着いたあちら側

の生活を乱し壊すだけしかないって思った。

理由如何に問わず幸せになって欲しい、ただそう思ったオレに見つけれる道はそれだけ

だった。

 

 

動悸が続くなら、病院に行った方がいいと声が聞こえそうだが、

行かない。

人を鬼と呼び世を修羅と言う絶望系陰キャが、何が悲しくて延命をしてまで世にいねば

ならぬのか。

 

短命はダメ、長生きをしないと後悔するなんて言う人もいる。

オレは星空をみることが好きだが、意識や想いを地球や宇宙に馳せると、地球で言う

10年や20年や30年は瞬きのごとしである。

現代の電気などが少ない山奥の田舎の真夜中に、

月明りに照らされた山やその峰、流れる雲も照らされての自然ばかりの幻想的な風景を

見た時も、大昔の人もこれと同じ変わらない風景を見たことを想うと時なんか実際ある

のか\ないのか分からなくなる。

短命の宿命を変えてまで得るその短き時を生きて何が成し得るだろう。

そんな屁理屈を並べなくてもこの生涯実体験として、この10年、20年はあっという

間だった。

このあっという間であった月日の感じを2度3度したところで一体何だと言うのか。

別に死にたい訳じゃないが、生きたい訳でもない。

短命でもいいし長生きでもいい、別にどっちでもいい。

生などに拘ってないのである。

 

それに、

処置をすれば生きながらえるところを短命のままにして後悔とやらをするなら、

後悔というものは、未知なものに対する過ちの形をとった学びであり。

トレードにおいても未熟ゆえに起こるべくして起こるべくものであって、

後悔または、それに付随する痛みを味わいたくないからとどれだけ先読みしていても、

未熟であることは変わらない為に、後悔は後を絶たないので防ぎようがないことだ。

従って、未熟ゆえの後悔は必ず相応に学びとして受け取らねばならぬ。

後悔とは学び。オレは学びを恐れない。何か学べるのであれば有難いことであり。

学びはその人にとって新しい気づきや発見である。むしろ楽しいに部類するものだ。

後悔という名の学びがお前にやってくるぞ、

のどこに怖気づく必要があるというのか。

 

それよりも死んだらどうなるのか、その未知の方が楽しみだったりする。

 

命を粗末にし、大事にしない者は地獄へ行くかもよ?

仮にそうだとしても、人を鬼、この世は修羅と呼ぶオレが、地獄へ行ったとして何が変

わるのか。すでにここがそうであり、修羅の世が鬼畜な世や地獄の世に変わろうと

目糞鼻クソである。隣の家に引っ越して何がどれほど変わるというのか。

見える景色も何もそう変わらんじゃろ?

それこそ延命と読んで笑ってしまうかもしれないわ。

感謝と幸せの原理を以てして幸せになってやろうか、めんどいけど。

 

死んだら暗くて何もない無になってしまうらしい?

それ、いいと思う。可能なら、いいねを何度も押してやりたいくらいだ。

この世のあらゆる宗教の僧たちやインドのヨーギや覚者を敬う人たちが、

家族や一切のものを捨ててまで出家し、生涯をかけ無、無我の境地に至ることを試みて

いる。

彼らの努力も以てしても、そこまでしても、無の境地を手に入れられないでいる。

息が止まり心臓が止まりそれで完全無になれるならそれの方が願ったりだ。

道に札束。とてもラッキーである。

そもそも一人の静かな時間が好きなのだ。目を閉じて一点の光無きあの暗闇がどらだけ

の充足と安息をもたらすのかを知るならば、何を嫌がる必要があるというのか。

充足と安息は始まりの中の始まりとさえ思えて来るほどにそれはあり。

我々が体験している全て、世界の存在を支えている根源はきっとそこである。

恐らく、光さえ生まれた場所だろう。一点の光無き、何もなき暗闇はそれだけでは比較

対象がないためにそれが暗闇であるか実は分からない。

時にこれは闇ではなく光ではなかろうか、黒ではなく白でないのかと思え。

比較対象がないそこでは、そこにある何かは暗闇でも光でも黒でも白でもなく、

はっきり言えばそんなことどっちでも何でもいいかとなってくる。

従って、最初のいち文句は間違ってるのだ。

死んだら、暗くて何もないところではなく、光ばかりで何もないところかもしれず、

白くて光っていて何もないところはつまり所謂天国かもしれない。

 

 

死んだら悲しむ人がいるかもしれない。

 

それを言ったらキリがない。

感情は生きてれば自然に自動的に都度都度、発起するものであるのだから、

それは致し方ない。

悲しいなら泣くしかない、楽しいなら笑うしかない。それだけのことである。

そもそも死なない人はいないのだ。

死んだくらいで悲しむな、である。

それよりは、その人が生きたことを、生を全うしたことを称えた方が気持いい。

そして関係をもてたことに感謝をした方が数倍、両者のためになる。

 

書いてて思うが、

 

絶望系陰キャというものは結構逞しい生きものだ。

 

 

血圧を調べたら上が210だった。

下は100だった。

少し昔にトレーダー兼業で夜勤をしていた時、上は220くらいあったが、

フラフラなんてしなかったんだよなぁ。やっぱ歳だろうか。

動悸があったり眩暈があったりだが、

血圧の落差がすごいので身体は何とかやり過ごすだろう。

身体にどうするのか決めさせる。

 

意外なことであるが、身体や身体を構成する細胞は死が現実的であるとなると、

顕在意識では干渉できない程に、全く違う別の生き物のようになる。

自分でありながら自分でない様になる。

幼き頃に交通事故にあってオレはその体験をしている。

細胞達が本気を出すと、人智では及ばない力を顕在意識を無視して発揮するため、

顕在意識は意識の領域の外で事の顛末、生く末を見守るしかなく。

それらの作業は無意識の領域内の仕事となるのだ。

本領発揮した細胞や無意識は時間さえ歪め、光よりも速いスピードで動き作業する。

この地球の時間の一秒やそれ未満の時間でさえ超スローになり一コマとして観れる。

意識も箍が外れ本領を発揮し、記憶した全てのことを時間さえ止まったようなそこで、

一つ一つ映し出し、生き残る術について検証する。

もし、術がなかったり、その気がなかったら、それらは思い出としてただ観るだろう。

自分より絶大であるその力が、何とも出来なければ諦めるに値する。

医者が物理的に施したとしても、大元であるそれがその気じゃないなら、僅かで些細な

時間しか医者は延命できないのだ。

それ次第なのである。

そしてそれが何をどう考えてるのか、自分でありながらも人はそれを知らない。

いいや、詳しく言うなら、顕在意識に知らされてなくまた、知る術もないために、

自分でも知らないとなり、自分ではない別の自分、本当の自分がそこにいる、

という表現になるのである。