40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

鬼とは人ここは修羅。

世界では戦争や紛争は絶えず。

比較的平和と言われる日本でも殺人や窃盗や詐欺などの犯罪は尽きない。

人は身の保身と優位を保つため弱者より強者に付き生きながらえようとし、

この時期になると鳥インフル、豚インフルと恐怖しては、

安心したいが為に範囲に生息する動物を病にかかってなくても無条件で殺処分する。

犬や猫などのペットも飼い主がいなければ可哀そうと思いながらも殺す。

 

鬼の様な人、鬼の様な存在、そんな言葉があるが、

人は鬼だ。

人が鬼なのだ。

己がもし殺処分される鳥や豚、犬や猫の立場なら、人という生き物を何と思うだろう。

鬼・・・そんな生ぬるくない・・悪魔だ。

 

普段は温厚でも一たび戦場へ赴けば、祖国の為、家族の為、仲間の為、

同じように守るものがある敵兵を当然の様に手にかけるだろう。

人は何かのため、誰かのため、という義が伴うと簡単に何にでも変身してしまう。

変身の術を持つ鬼、それを悪魔と言い換えることは難しくない。

 

今、世の中では昔なかったような問題行為が頻繁に起きてる。

中年、老人による煽り運転や電車内での罵倒、喧嘩など幼稚、幼いとも言える行為。

普通や通例、俗的には人は年齢を重ねるごとに角が取れ丸くなり温厚になり、

生の体験、経験と近く人生を去る想いから人生や他人を想い、

為になるように語らえる存在であったろうに。

 

どうして、このようになってしまったのだろう。

 

思うに、

人とは愛を大切にし、与え合いをする愛ある良き存在で、

世とは思いやり、助け合い、協力など慈悲溢れる素敵なところで、

人生とは面白く楽しいもの幸せを感じるもの、

というデマカセ、又はそんな建前、化けの皮を鵜呑みにしてしまい、

実際は、己の為であれば悪行もいとわない鬼が住む修羅の世界であるギャップに、

もがき苦しむからではないだろうかと度々思う時がある。

 

オレには昔、当時の妻の不貞行為がきっかけで離婚した経験があって。

子供は二人いて当時4歳と6歳っていう可愛さまっさかりの時だった。

ある日、突然オレには無言で子供たちを連れて唐突に出て行ってしまって。

妻方の両親、親戚もグルになってのあっち側には計画的だったが、

こっちは唐突で子供たちに別れの挨拶すら、

最後だからと何もしてやることができなかった。

相手は弁護士立てての調停離婚という流れになり。

 

当時のオレは誰かに裏切られることはあっても、

妻だけは裏切らないという確信に近い思いで信頼信用をしていて、

思いもしなかったその裏ぎりと信念の崩壊に鬱になり、

離婚に対しての準備、備えや戦い守るためにどうするかなんて気が回らず。

幾度か調停で面接官?っていうのか知らないけど、

中立の立場で調整をする者ですって挨拶された3人の調停員っていうのか、

そんな人達と話すことを設けられて。

始めには自己紹介され、その内容がうろ覚えだけど、

小学校の校長を何年も勤め上げた老人や他に人権や何かに詳しい中年の女性二人で。

とにかく、立場や得てきた経験的に人の風上における人格者なのだろうと安堵した

ことを覚えてる。

当時は子供たちの親権を得ようとしてたし、離婚の原因は妻の不貞だし、

子供たちは妻の不貞行為期間中、深夜までほったらかしだったし道理や道義で言えば、

オレに分があると思った。

人格者なら理解してくれるはずだとそう思えた。

 

ところが、口からでてくるのは、

子供はどんな母親でも母親といることが幸せ。

相手には弁護士がついてるので、折れたほうが無難。我々もどうしもない。

だった。

当時のオレは、何があっても正しいものは正しく、公的ほど正しく裁き公平に飛んで、

道義を大事にするもんだと思ってたので、

力や権威に屈服したような言葉を吐く目の前の公人達に信じられず、

ここでも信念は砕かれ人間不信になった。

 

三度目の調停の際、我が子の親権を妻でもあり母親でもある存在と争うごとの馬鹿さ加

減と子供たちは争う両親を子供はどう思うだろうと考えた末、

この愚行は続けるべきではないと決断し全て相手が望むがままにしてくれとした。

当時のオレは鬱もあるし、家庭を失ったことから仕事をする意味も意義も、

生きるそれさえも失ってしまって。

仕事はいい加減になり職場ではうつ病の薬で眠ってしまうし、会社では評判がかなり悪

くなってクビ宣告され無職確定だったが、それでも幼い子供達を想うとシングル母にな

る元妻、旧家族達であっても生活苦だけは許容できないので、オレは無一文になるが貯

金の全部を妻に渡すよう弁護士に託し争いである調停を終えた。

 

人は鬼、この世界は修羅だ。

 

人は善良な生き物なんかじゃない、

むしろ野蛮と思われがちな動物たちの方が餌のため

に他種を狩り弱肉とするものの己が必要とする分までしか殺めないし、

必要ではない時においては時に無条件の愛さえ示す。

 

賢い化けの皮で己の狡猾さを隠し、

偽善で己に慢心し自己顕示欲と自己肯定欲を満たす生き物。人いう鬼。

己が鬼や悪魔であることを認めるには、耐えれるにあたいしない心を持つ弱き生き物。

 

こんなふうに書くと、

そんなふうに思いながら生きてて

楽しいか?辛いだけだろ?幸せか?悲しくならない?

とか声が聞こえそうだ。

 

もちろん、

楽しくないわ。

辛いわ。

悲しいわ。

 

オレは過去、兼業トレードしてた頃、夜勤の工場勤務をしていたことがある。

そこには海外実習生なる18~20の若いキャピキャピの女性達がたくさんきていた。

数か国から来ていたが、中でもベトナムの娘たちは、なんていうのか。。

昭和の頃やバブルを迎える昔の日本人の10代の様で、

明るくて元気で親や兄弟想いの純粋で無垢で。

少年少女達だからなのかそんな心を持つ人が多くて。

数十年日本が進んでるからか、アジアの国が遅れてるからなのか、

とにかく現代の日本の若輩者がしてる荒んだ目と希望に溢れる目と目の輝きが違った。

そんな彼女達がオレに頻繁に言ったことがある。

 

どうしていつもそんなに目が悲しんですか?私も悲しくなります。

 

他人が言うくらいだ。

本心から言うわ。

生きてて楽しくないわ。

辛いわ。

悲しいと思いながら生きる陰キャだよオレは。

 

だけどね、幸せじゃなくはない。

人は鬼、鬼は人、この世は修羅の世界と見抜き知って身を置くなら、

人の醜くも汚い下劣なる様を見ても腹を立てる気さえ起きない。

意地の悪さや汚さ、卑劣で姑息な様を見ても鬼や悪魔なのだから当然だと思える。

それを受けて動じるだけ馬鹿馬鹿しいってもの。

 

こんな風に思い生きれば、引き寄せの法則で悪いことが起きるかも?

こんな声も聞こえそうだ。

 

この世は素晴らしい、人生は素晴らしい、そう教わって純粋に信じた生きた人が

この世の有り様見たら、そのような人はどう思うかな?

ギャップで正気ではいられまい?

そんな人がパニックで怒り狂い、

良い人ではない人は許せないと、オレが鉄槌を下すと、暴れると思えないか?

生きてりゃ失敗はする、心がけてても焦って少々のミスなんてざらにある。

人の行きかう場でぶつかったり、ついつい道を調べる都合でスマホ見ながら歩いたり、

手首をひねって痛めてて咳をするのに手をあてがえなかったり。いろいろある。

だけど世が良い所、人は良い生物と教わった人には、事情やミスは関係なく、

良いことをしない人は悪人であり裁かれる必要があり、痛い目見て裁かれて当然と思

う。いじわるされて当然、迷惑被って当然、

よしあいつにやっちゃおうって動じてしまう。

 

そんな心乱された人に比べたらぜんぜん幸せだね。

 

世に決まりや法を設ければ、設けただけ違反者が現れ

世に基準を定めれば、定めだけ不合格者が現れる。

あれが良し、これが良しと良という判別をすればするだけ悪が生まれる。

 

この世を良い場所、人生は素晴らしいものという偽りと幻想を信じ、

まやかしの中にあっては、物事をきちんと正しく判断し決定できると思うかね?

既にまやかしの中でいるというのに。

 

それに比べて、

 

人は鬼、鬼は人、この世は修羅であり苦であるという

例え認めがたいものであっても、正しく認識するならば、

この場にいて尚ここでどう生きるのか、正しく考え判断し決定できると思えないか?

 

人は鬼、鬼は人、ここは修羅。

嘆いても人は鬼、修羅は修羅。

悲観しても泣いても、何しても人は鬼、ここは修羅。

そして誰もが最後は死んで、鬼や修羅も夢となる。

所詮ここは演劇、歌舞伎の舞台。

周りは鬼ばかり、世は修羅の時。

誠からなる想いと優しさ、無条件の愛は灯のごとくに少なき修羅の時。

どうせ舞台なら盛大に歌舞け。

見ること稀な愛なる姿を舞って見せる、歌って見せる、演じて見せよう。

 

まやかしのぬるい世界を信じてたら、こんな思いや覚悟は抱けない。

酷い有り様であることを認識できてから抱けるものだ。

 

愛なる姿勢を見せることができるなら、

引き寄せの法則的には何を引き寄せるだろうか?

大抵の人が聞いて信じたスピリチュアルは、

修羅の世界の欲を満たす手法、鬼の銭集めのネタでしかない。

 

魂の旅路的に言えば、

まやかしに浸り、まやかしに生き、鬼の養分として生きるのも一興で悪くないが、

演劇と知って、主人公のごとく生き歌舞伎、花華しく終えるのも一興で悪くない。