40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

1/21、誰もが知って欲しいこの生涯で果たすべき大仕事

私たちは生を受けると誰もが自我を持ち、身体を自身と思うようになる。

そして、それに疑問を持ち真相を暴くことなく生きるなら、

やがて来る老いや病とそれに付随する憂い事や必ず訪れる死に怯え悩み生きる。

例え怯え悩まずとも、幸せや安寧を探し求め渇望という苦と共に存在し、

それは絶えない喉の渇きに苦しみながらオアシスを求め砂漠を彷徨う旅人の様であり、

それは死後も続く。

 

この無限のループを断ち切り、渇望と苦に終止符を打つ方法は、

生を伴い自我を持てているこの生涯の内、合間に存在する。

 

それはどうしてかというと、

我々が何かを確認、意識する方法は何かと対象に在る時である為であるからだ。

日々の日常の中でもそれは示していて。

我々は客観的視点で構える時に様々なことに気づき発見し認識する。

 

さて、この生涯、自我を持つことで個我となり、

その為に対照的、客観的に気づき、発見できることはなんだろうか?

 

それは対象である自我なき全体性のことだ。

 

そして自我無き全体性の存在に気づき、そしてそれが自身であると再確認することは

自身の全てを180度引っ繰り返すことになる。

それはそうだろう。とても単純でシンプルだ。

今まで身体としての小さき個我としての視点で考えていた様々なものが、

無限に大きい全体我(造語)としての視点で考えるものは全く違い逆となる。

 

それは人々の誰もが憂いる、老いや病とそれに付随する心配事、そして死に対すること

に至るまでまで全く変わり別になる。

 

もし生を受けているこの生涯で、本当の我に気づくこととなく死を迎え生を失うなら、

全体性に気づけないままに本当の自身である全体性として存在することになり。

先に書いた、

渇きを癒したいと砂漠を彷徨う旅人のように、

長き時の中を彷徨って彷徨って彷徨いに尽くす。

一時のモルヒネのような楽を幸せと勘違いし、あからさまな苦と楽という皮の被った苦

の内に存在し本質的に苦ばかりを味わうのだ。

 

それは丁度、寝てみる夢のよう。

夢の中では自身に気づきながらも何もできない。

五感がないため、個我としても在れず。

全体性でありながら、全体性の自身にも気づけない。

夢がどこからかやってきて寝ている間に己に潜みそれで夢をみたのなら、

みた夢の全てと己は別物であり、実態としての関係はないとひと蹴りできるが、

夢は己の中で起こり見たのであるから、夢は己が作りだしたものであり、

夢の中に存在した人も建物も景色も大洋や太陽でさえ己やその力なのであり。

ただただ自動的に流れる夢に一喜一憂し苦の内に在る。

 

絶対な渇望と苦に終止符を打つ方法、究極的な幸せ、安寧をもたらす方法は、

この生涯の内、合間に存在すると言ったがその方法は、

死について見つめれば、見つかる。

 

死とは肉体、身体の死であり、それは自我、個我の死であり、

自我、個我の死滅、それは同時に全体我の誕生であり方法となる。

その一連の問いと答えは自問自答で完結するため、己ひとつでの事足りるが、

サポートが欲しければ、お釈迦様をはじめとする先人達が言伝を残しているので、

頼りにするも良し。

 

死んだらどうなるのか?

死んだらどこへ行くのか?

 

そもそもそれを考える我とは何か?生きてるのか?

死んだらどこへ行くの前にそもそも今どこいる?

そうこうしてると理論的な答えはやってきて、

そして体験的結果として知る機会もやってくるだろう。

 

さて、ここまで書いて恐らく読み手に一番に理解できないことは、

全体我による者の視点やその者が抱く幸せや安寧と言われるものであろう。

自我個我の正反対であるので、視点も実感も皆無であろうし。

 

全体我の者、変身ではなく帰還した者にとっては、

その生涯でやるべきことは一切なくなる。

それはつまりやがて訪れる肉体、身体の死に備えて人生でやり残すということもなく。

やることもなければ残すことはない。

それは人世、この世の常識、道徳説も通用しなく、その者を縛ることはできない。

他人が存在しない視点で、他人や誰かを救いたいという願望自体が生まれない。

自身以外のモノが存在しない世界で何を否定し変える必要がでてくるというのか。

救いにしても、

助けを求められたという事象が起こったのでそうしたというだけで、

したいとも思わない、救うことを使命とはしない。

人的救いをしないこともまた意味があるという叡智を持っている。

仏教的に言えば、仏、菩薩の道の入り口は絶望であると心得ている。

全体我、覚者であるからこそ、その道を潰すようなことはしないのだ。

 

よって人世の根底とも言える、

 

弱きものを助ける、

困ってる人を救う、

という人としての根底的絶対道徳さえも全体我の者を縛れず効力はない。

真の意味でやることなく、やり残すこともないのである。

この心境はその者になってみないと分からないとも言われている。

たしかインドのラマナマハルシと彷徨い人との問答でマハルシはそう言われた。

 

問い:どうして世界中の人々を悟りに導こうとしないのか?不幸に困ってる人を助けな

いのか?あなたは飢えや貧困に苦しんでいる人も助けないのか?そんなのは聖者とは言

えないのではないか?

答え:寝てみる夢の世界で夢に出てきた人々に向かって、

これは夢であるから、早く目覚めなさいとあなたは言って回るのかね?と。

実に全体我の視点の描写をうまく言い表した例えである。

 

人は銭や地位や名声を得ても、心に絶対最終的に残る願望は、

自由になりたい、

自由でいたい、

であるが、自我個我である限り自由でいても尚、自由という概念の自由に縛られる。

 

やることもなくやり残すこともない者の心には、

自由であるべき、自由になりたい、自由でいたい、というそれすらなく、

自由にさえ縛られない、自由からも解放された心を持って、

それでいて静かにどこまでも広く、水をなみなみと湛える湖のごとくに、

何もやることがないこと、やり残すことがないこと、存在するだけの喜びを

溢れんばかりに携え、それが安寧でもあり。

そのような全体我の者にとっては、死ぬのも良し生きるのも良し。

 

このような心境、境地は神々さえ羨むと言われていて、

インドの聖典に出てくる話だったと思うが、覚者の台座となって神々が仕えたと言われ

ている。

神様、いわゆる善でさえ悪という対峙があり、永遠に終わらない戦いを強いられる。

それは紛れもない苦であり、神でさえその問題を片付けられないでいる。

 

自我個我で生きる限り、人生は大河を流れる小さき船である。

その大河の先にはヴィクトリアの滝の様に落ちたら絶対助からない死という滝があり、

どこまでも無限に広い大河である為に両岸へ船をつけるのも不可能。

自我個我にとっては絶対的に、最後はその滝に落ちねばならない定め。

自我個我、人がやらねばならないのは、薬を飲んで医者に通い、船の歩みを遅める事で

はない。遅めたところで滝から落ちるのは避けようがない。

やり残しがないように、人生を謳歌することでもない。人の思考はやり尽くせばやり残

しがなくなるという理論を持ちだすが、尽きるということはないので理論破綻すること

さえ知らない未熟な理論でそのようにはならず、悔いややり残しは必ず残ったまま滝か

ら落ちる。

 

真に自我個我という人がやらねばならないことは、例えになるが、

ヴィクトリアの滝さえを含めた地球という星の船に乗り換えてしまう事である。

その船では滝はその船の中にあり、滝から落ちるということはあり得ない。

そしてその乗り換える作業は、生きてる間にしか出来ないのだ。

 

一部引用、これに似た動画がある。興味のある人は見ると良いだろう。

内容については分かりやすいと思われる。

ただし、この動画配信者が所属してるであろう宗教?団体については、

問題があるとの噂もあり信者にはならないように。

先に書いた通り、この問題への取り組みは大仕事でありながらも、自問自答の己ひとつ

で完結する。むしろ自分自身、己でしか解決できない。

一人孤独に孤高に向き合うしか術はなく。

自分以外の他者や団体へ頼り与えてもらえるというようなものではない。

youtu.be

 

宗教団体について。これも見た方がいいだろう。

youtu.be

 

因みに、仏法についての教示に嘘はないだろう。

ただ、活動するうえで収入もなくてならず説法を銭を得る糧とするのが宗教団体なのだ

と思う。繰り返すが、己が何者か本身(造語)に気づくには己を調べれば良く、

それについて、己ひとつで事足りる。他者や他組織に頼る必要はない。

自身以外の何かに頼れば、本身への帰還ではなく変身になってしまう。

自身が自身であるために変身は必要ない。ただ帰るだけでよいのである。

 

話をすすめると、

この動画の主はたしか別の動画でだが、

仏になった者のこの世での活動、喜びは仏法を説くことと言った。

そしてそれは遊びであると。

 

先に挙げたマハルシの言葉を再度載せると、

 

寝てみる夢の世界で夢に出てきた人々に向かって、

これは夢であるから、あなたも早く目覚めなさいと言うかね?

 

今日の寝る際に、自身に言い聞かせてみて欲しい。

これから夢に出てきた人に、起きなさい、目覚めなさいと問うて、

起こしてあげるんだ!と。

正直に言おう、

馬鹿馬鹿しく思うだろう。

相手は架空でもある夢のなかの人なのだ。

よって遊びなのである。

 

そして今日の日記では、絶対、という言葉を多用している。

オレは通常の日記や日常では絶対という言葉はあまり使わない。

特にトレードにおいては絶対は存在しないし、日常の営みにおいても絶対は存在しない

と心得ているからだ。

だが、後生の一大事という大問題、大仕事では見つめる対象や扱う対象が、

生や魂における根底レベル、数字で言うなら割れない数や数式レベルのものなので、

基本の基本の根底、核であり、そこには絶対のものばかりが存在し、

それを解決してしまおうという事であり、

だからこその後生の一大事、大仕事なのである。

 

この問題に絶対という言葉は相応しい。

そして人にとっての全てという全ての問題は片付く。

なぜなら問題の方から去っていく、消えるからである。

そこでは解決策や答えが求められない、必要ないのである。

問題が消え失せるからだ。