40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

12/24、一人きり、ぼっちクリスマスの人へ

今日はクリスマスイヴ。

約2000年ほど前に聖母とされるマリアという女性がイエス出産の為に陣痛に苦しんでる

日だ。その頃の日本は弥生時代の中期頃とされているよう。

オレの住まいの弥生時代の中期頃は自宅から歩いて数分の山の裾に集落があった。

ずいぶん昔に調査もされたようだ。

いくつかの壷や土器が発見されていて、オレの叔父が子供の頃に遊びで土器堀をしたと

ころ欠片の塊を見つけ、プラモデルのように組み立てたら弥生紋の立派な大きめの壷が

出来上がり、その繋ぎ合わせた壷を見たことがあった。

クリスマスという2000年前の中東から日本のこの地域の暮らしへと思考は飛んで、

想いを馳せる。

当時はこの時期、どんな感じだったのだろうか。

今日のように雪が降っていたろうか。灯りは焚火だったに違いない。

その集落の傍らには山から流れる沢があり、きっとその水辺をあてにしての集落だ。

山からの山菜や果物をとり動物たちを狩って過ごしていたと思う。

今のように銭や何かの為に不必要な紛争や戦争、殺し合いはなかっただろう。

今日のような寒い日は、ゆったりした時間の中で共に暖を取り糧を分け合い、苦労も幸

せも分かち合いながら自然の恵みに感謝し、仲睦まじく暮らしていたことだろうと思

う。

 

想いを中東へ戻すと、実際は数日ずれているらしいが通例に話を合わせると、

明日生まれるイエスはたった一人の神の子でありメシア、救いの者であったという。

 

んー・・色々と辻褄が合わなくて、正直人から人への口伝で大分に中身がずれたとしか

思えない。もしかすると欲による人のあざとさにより狡猾に意図的に変えられたと思わ

ざる負えない。

 

人の心を歪みなく見れば、醜く、あざとく、卑しく、臆病で、弱弱しく、強欲で汚く悪

的部分が大半を占め世を恐怖と不幸で染める。

人が愛や美や善を表すときはだいたい決まって心による支配や干渉がない時か若しくは

少ない時である。

恐らく当時の人もそうであり、当時の中東の人の世もその秤で成り立っていたことだろ

う。そんな世に現われ言い伝えらえる程になる人物は、俗世の人々とは違って稀なこと

をしたに違いなく。

心を野放しにし、欲に手綱を握られ、欲に従う道の不幸や苦しみに喘いだ大衆を、

心とは対極なる勇敢さで本質を見抜き説き、幸福になる方法を話し授け善を生き現した

のであろう。

今もそうであるが、普通なら恐れる支配者による処罰を恐れない、勇敢で勇ましくも

賢明で雄弁なる姿は人々の目には畏き別な存在に映ったかもしれない。

彼はブッタの西暦1年中東版であると考える。

 

2000年前の中東、当時は電気もテレビもスマホもないのだ。今のように手持ちぶたさで

意識を紛らわすことはできないこと考えると、突き詰めるタイプなら稀とも言えるほど

に精神的成熟を果たすこともあり得なくないだろう。学者も圧倒するほどの雄弁であっ

たとするのもそれなら納得がいく。

 

因みにブッタはとても現実的な人であった。

神などいない、魂もないと言った。

不幸や苦しんでいる者の不幸や苦しみを取り除けない神や魂のそれが何の役に立つのか

と。そして彼は幸せになる方法を追求しやがて手に入れ、その術を伝授するが彼はこう

も言った。

「私が死んだ後の数百年後には、私が伝えた真意や方法は正しく伝わらないだろう」

と。彼は口伝や書面による伝記、人から人へは正しく伝わらないそれを知っていた。

 

エスが死んで、既に2000年と少し。

彼の真意と伝承は正しく伝わってないと見るが賢明である。

エスが救いの為の術を伝授したのは事実だろうと思う。

だからこそ今日までこのように12/25がクリスマスで聖夜とされている。

しかし、たった一人の神の子とするには先に神を知らねばならない。

神ががなんであるかを定義しなければならば、神の子と言われても。。

彼はマリアという女性から生まれた。

だから人の子であることは世界共通、異論は認められない。

それでも神の子と位置づけするのであれば、神とは物理、有形ではない。

無形であるなら、例えば霊的、エネルギーでもいいが、神がそれであるなら、

どうして、たった一人の子と言えるのか?

エネルギーの領域において物理的にできるような差別や分別、明確な境はない。

エネルギーは波長や密度等が違う形式を変えたものを体現している過ぎず。

一つも二つもない。金の延べ棒も金の指輪も金であることと同じであり、

金にあれもこれもない。

故に、イエスはたった一人の神の子、とされているから相当に口伝によって真実

は歪みずれて間違って伝えられているのだろう。

したがって、今日のクリスマスの捉え方、祝い方も相当に間違っているとなろう。

 

今日のクリスマスは大事な人や人達と盛大に祝い、パーティーを開き特別なおいしい

料理を食べ酒をのみ和気あいあいと過ごす。人との関係性を確認することで孤独ではな

いことに安堵し安心と楽という刺激を求めて。

まさに恐怖や孤独を毛嫌いし弱々しくもある心の様そのものだ。

そして、今日のクリスマスの捉え方、祝い方も相当に間違ってるのであるから、

それに従っては不幸になる、

そのままでは幸せになれない、

が約2000年前当時にイエスが伝えたかったうちの一つでなかろうか。

 

心静かに在ることの中に孤独にありて、

得られる満ち満ちる感、充足、安息、沸き上がる理由なき、対象無き感謝の想い。

感じる幸せの感覚。

自分を不幸にしているのは自分であり、もし幸せは神がなす業であるならば、

神は内にいるかあなたが神そのものだ。自分は自分を幸せにできる。

エスが伝えたかったことは多分これである。

 

愛している人と想い出に残る贅沢な一夜を?

大勢の友人と盛大なパーティーを?

大切な人へとびっきりのプレゼントを?

利益を追求したい消費企業マインドのこんな宣伝で心に刺激と洗脳を植え込まれ、

まざまざと心に手綱を握られて不幸を呼ぶ現代を見て、イエスは相当に落胆するだろ

う。オレは何のためにあんな必死で説いたのかと鬱になるかもしれない。(冗談

今日と明日のイエスの記念日くらい、イエスの意図を汲み取ってあげてもいいだろう

に。

 

もし、あなたが一人きりで、ぼっちクリスマスなら、それはイエスに祝福されている

と思えばいい。イエスが真の幸せの道、そのなり方を授けているのだと。

そもそも、世俗的な大規模な記念イベントで孤独であるということ自体が、

あなたの精神性の成熟度が高いが故に起こっている現実だろう。

精神性が未熟で幼稚な者は、孤独の負の面に耐えられずこうはいかない。

普段から自分を殺し愛想よく付き合い、誘い誘われ今日は一人じゃないだろう。

ただ誘われなかっただけ・・・

その誘われなかったのは、あなたに高い精神性が見られる、感じとられたからに他なら

ない。精神性や内なる自身のそれは、滲むようにオーラのごとく放っているために隠そ

うと思っても隠せない。

 

孤独、寂しい、仲間外れ、友達いない、恋人いない。

 

そんな心の不平不満、価値観に脅されてはいけない。

また楽しそうにしている、見えてる者をひがんではいけない。

ただ、あなたの目にその様に映ってるだけに過ぎない。

その者から身体をはぎ取り心を覗けば、恐怖や寂しさ、孤独、悲しさで満ちて溢れかえ

っている。それゆえ、誰かを掴み繋がわずにいられないのであるから。

 

今日に一人きり、ぼっちであることを例えイエスが祝福しなくてもオレが祝福する。

せっかくぼっちなんだ、どうせならその一人の時間、この機会を大事にしてほしい。

 

心静かに在ることの中に孤独にありて、

得られる満ち満ちる感、充足、安息、沸き上がる理由なき、対象無き感謝の想い。

感じる幸せの感覚。

ひと吹きもなき静かな湖面のような、今というこの時間、存在に感謝します。

このような想いを訪れることを願う。

 

因みに、宇多田ヒカルは、調子が悪かったり自分を立て直すときにやることは、

一人きりになること、一人の時間をつくること、その時は一切の連絡手段を絶つのだそ

うだ。人にとって一人孤独にある時間とは決して、悲しい、寂しいものではなく、そう

思えるのはただ価値観によるものであり、その価値観は年齢や時と場所、立場によりコ

ロコロ変わる絶対的なものではなく、実際はそれとは対照的に、とてもとても×100

乗な程に、人にとって大事な時間なのである。