40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

1/9、初老が思う人生観:忙しい日々の中で時々思い出さなくてはいけないこと

幾人もの幼児たちが居なくなって数日。

ようやく平穏な今まで通りの静かで何もない生活が返ってきた。

今日は3連休の最終日となり、社会として明日から本格的に新しい年の活動が始まるこ

とだろうと思う。

 

生きるためには食べることしなくてはならない、

食べる為には働かなくてはならない。

働くには食べることをしなければならない。

働くことと食べることの繰り返し、それが生きること。。。

現実や時の流れに呑み込まれると、ただのループ、そうなってしまいがちである。

そうして知らぬ間に時はあっという間に過ぎて、

年をとり老いや病と死が気づいたらいつの間にかそこにあるっていう。

 

人生って何なのか?

 

それをシンプルに短くまとめるなら、

幸せになるため、幸せの追求に他ならない。

 

そして人によって、その為のアイディアが様々なだけ。

ある人はお金がたくさんあれば幸せになれると信じ、お金を集めることを追求し、

ある人は好きなことだけをすれば幸せでいられると信じ、その生活を追求し、

ある人は愛している人との家庭や日々を共に過ごすことが幸せであると信じ過ごし、

ある人は地位や権力を得れば幸せになれると信じ追求しているだけに過ぎない。

その活動や費やした時間を人は人生と呼び、そしてそれで良いのである。

 

全ての人が幸せになれると信じ追求する道は、全て間違いであり無駄ではあるが、

追求することでそれは明らかになるため、無駄なことをして無駄と知る無駄な道は無駄

ではない。幸せの追求の先、それをした結果は、誰もが同じ場所、同じ答えにたどり着

く。そして、その場所や答えには誰もがぐぅの音も出ない程に納得し喜び受けれいるこ

と間違いないだろう。生とはそのためにあるということも人は知る。

 

であるから、

人生または日々の生活は、幸せの追求の為にあることを、忘れてはならない。

 

日々の生活は求める動的な心のざわめきによって、人はついついそれを忘れてしまい、

幸せでない毎日をだらだらと惰性で流し生きてしまう。

 

人生という時の長さは、真っ当に寿命を生きれたとしても十分と言える長さはない。

 

この生活に幸せはあるか?この生活の延長には幸せはあるか?と問うて、

ないのだと思えたなら、どうすれば幸せだと思えるのかを考え、そして試し、

消去法で幸せの道を積極的に追求するべきである。

 

人によって又は、場合によっては、家族を捨てる決断もありだ。

常識的には不とされる妻や、旦那や、子供達との離別さえ理(ことわり)的には、

不ではない。

なぜなら、誰もが本質的に孤独、孤高であるからだ。

孤独、孤高な存在にとって、己、自身以外の何か、

例えば銭でも物でも地位でも名誉でもそれで幸せになれる、それらに頼るなら、

それは依存であり、妻や旦那や子供達という人物は対象が変わったに過ぎず同じこと。

対象が何であれ依存して幸せになることはまずあり得ない。

幸せを追求することでそれも知るだろう。

 

繰り返しになるが、

 

この生活に幸せはあるか?この生活の延長には幸せはあるか?

を日々の生活の中で問わなくてはならない。

そして、その道にないと思えたなら、違う道を行かなくてはならない。

日々の生活=人生は、幸せの追求のためにあるのだから。

そのための生なのだ。

 

新たな道を行くことには相応な決意と勇気を必要とするだろう。

ゆえに人は躊躇いがちになる。

躊躇いたければ躊躇うのも致し方ないだろう。

ただし、それは問題を先送りにしてるに過ぎず、

安全、安泰との思い込み、勘違いの代償としてその間にいたずらに苦しみだけである。

生涯のどこか、若しくは後生のどこかで、

苦しみ耐えきれずようやく重い腰を上げることになるのは絶対的明白である。

しかしながら、長い目、客観的にみるなら、それも含めてその道を追求したことになる

のであろうから一概に無駄とも断言はできない。。。かも。

しかも、消去法で残る最後の道の前には人的な苦しみが横たわっており、

絶望がその入り口であるため、人は尚の事、中々その道を選べない。

 

ただ、追及した末に絶対的な場所、答えにたどり着いた先人達は、

声を揃えて同じこと言う。

いたずらに無駄に過ごしてる時間はない、一刻も早くその道を見つけ進めと。

次にこのような機会に恵まれるには絶望的な確率の為に、

数値化できない程の途方もない時間がかかるであろうからと。

 

数値化できない程の途方もない時間の最中、憎しみ恨み悶え苦しむことを思えば、

この生で感ずる最後の道の入り口=絶望などは比べるに優しいかもしれない。

絶望であるから苦しいは苦しいが、それでも喉元過ぎれば何とやらで一時のもの。

オレも死んでしまいたいという思い、絶望を数年いや十数年味わったが、

今では絶望の味も薄れある程度の記憶しかなくそんなもの。

絶望や失望は意外に恐るるに足りないものだよ。

 

似たような内容の動画を見つけたので、興味のある人は見るといいかもしれない。

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