11/13(日)初老で思う人生観
最近、老いを感じる。
時間が歳が体力、気力を追い越してきたように感じる。
そもそもトレードで座りっぱなしだし、
身体を動かすのは好きな方だったし得意なほうだったけど、
筋力の衰えと共に動かさなくなったら、動かなくなった。
若い頃はもっぱら、というか30代も40台も立ち仕事で、
18の歳で就職してからは、盆正月時も仕事な感じで就職、仕事って
なんていうか、どれだけ自分を犠牲できるかってことだと無意識に思ってた様な。
そのせいもあるのか、立ち仕事では姿勢も良くないにも関わらず
犠牲心で立ち仕事をしてたので、50付近の近頃は足首が角度によっては
激痛が走り、足元が不安定な場所では普通歩行も難しく。
杖でも揃えるかって思考に。
いくら何でもまだギリギリ40代で杖って早すぎるとも思うけども。
不思議なもんで、精神的には60代、70代の気分で。
こうやってギリギリまだ40代と書いた今でさえ、
あれ?オレって結構まだ若くない?40代なんだって感じで。
・・・書きながら思ったけど、もしかしてこれ痴呆かな??
少し話がずれたがそんな感じで。
身体は心、心は身体。
身体が弱くなってきて思う事、気づくことってあって。
人って生まれて、生きて、死ぬわけだけど、
たったそれだけで実は大したもんなんだなと思え始めた。
身体が若く力が湧き出てる頃は気力も同じ感じで、
溢れる体力や気力のせいに隠れて気づかなかった事実だ。
生きて何をしようともどんな役割をやろうとも、そんなの実は関係なくて。
心を持たざる者が、生まれ生きること=心を宿すことに意義があり、
心とは苦、抵抗の元凶でもあり、
心を宿すとはそれの下に生き、心持たざる者を思い知るであり、
それを成し遂げている全ての人の生は偉業であり、全ての人は偉人そのものだ。
どのように生きよう?
何をしよう?何を達成しよう?
と考えるのは、
例えるなら、
非日常感を楽しむために旅行に行って、旅行先の滞在に慣れ飽きて、
さて何をしようか、何をするべきかと悩み考えるに近い。
当初の目的通りに旅行先に行き目的は達成して、おめでたいて終わりのはずが。
そのような視点に立つことが出来るなら、
この生で何をしようか、どうしようかではなく、
この生は単に体験を味わえばいいのではないか、
体験を味わうことをすればいいのではないかとの考えに至り。
列車の車窓を眺めるがごとく、
自身の生まれでた環境や役割という宿命や
置かれた状況や用意された出会いなる運命を
ただただ自分の考えに基づいて行いて事を進め
自分らしい体験を自分らしく経験するまでである。