40代無職借金独身男っていうヤバイ奴の株デイトレ書きなぐり日記

誤字脱字は当たり前。人生全般、身勝手な偏向で書きなぐる。

11/3(木)普通の人なら人生の勝負時は中年から

今日は相場は休場。

雲を眺めて過ごした。

流れる雲は流れるに従い形を変え濃くなり薄くなり散っていったり。

雲の変化に刹那なる寂しさや虚しさ、美しさや素晴らしさを感ず。

景色を見れば、山は紅葉に満ち木々が謳歌の最後の舞いを。

庭のバラや菊(たぶん)の花々は時期も最後と感じているのか燦燦と咲き乱れ、

力のありったけを出してるようだ。

 

何時からだろう、こんなに秋が好きになったのは。

30代のあたりだったような気がする。

それまでは夏が好きだった。

凛と張り詰めた寒さの冬も好き。

新緑で若気に満ちる春も好き。

夏のモアっとする熱気を嗅ぐと若くして上京した際の御徒町駅の線路を思い出し、

若気を思い起こされる夏も好き。(あれ?全部好きだな・・・・

 

一番、特別好きなのはって意味で秋が好きだ。

 

しかし秋が特別なのは

好きな理由が、他の季節とはわけが違って。

秋に感じる、虚しさ、切なさ、儚さ、無力さ、無意味さ、弱さ

そんなのが人や人生の感じとよく似ているようで。

 

昔、好きな人がいた。

50歳近いおじさんで、きもい日記になりそうだが。

30代の頃だった、本当に好きだった。

いや、最初から好きじゃなかったんだよ。

付き合いだして、付き合っていくうちに好きになって情が出来上がって。

一緒にいる間に更に愛情と呼べばいいのか分からないがそんなのが増していって。

いつしか心の底から好きになっていた。

当然、大人同士だし身体を求めあうこともした。

最初は性的本能に従い何度も身体を求めあい重ねた。

でもそのうち、心の欲求の解消、心までも一緒になりたい思いで身体を求めた。

好きすぎるが故に感じた感情、どれだけ近くまで接しても完全に一つにはなれない

っていう虚しさや寂しさや切なさを感じてた。

募る虚しさや切なさの思いに一つの気づきを思わずにはいられなかった。

 

それは、

人はどこまでも孤独であるということと、

虚しさや切なさを感じ思う心がある限り、

どれだけ好きな人やモノを集めても幸せに至れないということ。

環境ではなく心に手立てを打たないと真なる幸せはずっと手にできないこと。

 

紀元前の時代の今の中国のあたりに漢という国があった。

その皇帝の一人に武帝という人物がいて。

当時の漢はとても強大且つ強力な国と言われていて、

然るにそこの皇帝は粗方好き放題を出来たと想像するに容易く。

そんな武帝がこんな唄を詠んだという。

 

歓楽極まりて哀情多し。

 

快楽を好きなだけしたが、虚しさや切なさという哀情が溢れてくるって感じの唄だ。

 

環境や立場こそ違えど、これは先の30代の自分が感じたものと一緒で近いと思う。

武帝の思いに共感してしまう。

自分はこの人生で莫大な富や権力を手にしたことはないが、

なんだかそれを手にしても幸せは叶わないってのは感覚で知ってる。

莫大な富や権力を手にすればするほど、

対等な関係だからこそ築ける他人との心の関係は得られない。

この人生でそれは叶ったが、それでも感じた虚しさや切なさなる哀情。

最後に残った打つ手は、己の心に向き合うことこれ以外になく。

 

お釈迦様は、この世の苦しみは三苦に分けられると説いたようだ。

一つは区苦と言い、身体的に感じる苦しみ。

 歯が痛い、熱い、寒い、など

二つは壊苦と言い、環境による苦しみ。

 失恋した、親が死んだ、パソコンが壊れた、など

三つは行苦と言い、刹那に思う虚しさ、切なさ、儚さ等言葉にできずらい感情の苦しみ

 無常、変化というそれ自体に感ずる精神的痛み、憂いなど

そしてこうも説いた。

 

無常を観ずは菩薩心の一つなり。

つまり、

行苦を感じ観ずは菩薩心の一つとなり、

 無常に焦点をあてる心は菩薩心の一つであり始まりです、

 無常を思う心に手を打つのは区のない菩薩に至る道です、とか

そんな感じの意味となる。

 

秋を好きな人には、精神的に熟した人が多いのではないかと思われる。

 

因みに1620年代のフランスにブレーズ・パスカルという哲学者がいて。

パスカルの格言は多数あるがその一つに、

 

人間から気晴らしを除いたら、不安と倦怠だけになる。

 

という詩があるようだ。

これを嚙み砕くと、

人の心は不安や心配や愁いごとが常であり気晴らしして気を逸らしている、である。

しょっちゅうスマホを見てるのも、ゲームをしてるのも、

電車や人を待つ数分でさえ、人は一人在ることができない。

よく見る光景だ。

パスカル武帝、お釈迦様の教えはこの方から引用

https://www.youtube.com/channel/UC2L2dBbBWuexPgOE4IdGu2g

仏教を分かりやすく教える活動をしているらしい。

 

 

一人在ればその心と向き合わねばならず、人はそれに耐えらない。

逆を言えば、

一人在れば、その心と対峙することができ、手立てを講ずることが出来る、であり

その結果を精神的大人や偉人、悟り人と世間は呼んできたのだろう。

 

一人在ると、

身に及んでいる事態や環境、自分が出来ること出来ないこと、成すべきこと、

やらないと後悔すること等など、過去、現在、未来に対する想いが湧く。

一人在れば気づくことだが、自身の中に自身を導く先生に値する者がいる。

人はそんな存在は、近くではなくどこか遠くにいると思いがちだ。

人の愚かな一面でもある。

話が飛んだ。

心はやがて必ず来て絶対に避けられない、死、とその先を想うだろう。

 

死に先があるとするなら、

それは身体無き想いだろう。

であるならば、心の状態、意識の持ち様が全てだ。

 

中年の初老や高年の老人にもなると、

やがては来るはずだった遠い、死、がそんな遠くではないことを知ってくる。

死を実感すればするほど、意識は刹那なる虚しさ、寂しさ、切なさなる行苦を注視す。

無常ということに対して思い煩う、それらの感情は、

はずれちゃいないが、まだ半面でしかなく。

もう反面あることを実感しなければならない。

生きてるうちに。

 

それは刹那であるが故の美しさ、事が生まれる素晴らしさ、変化という力強さ、

可能性という希望、挑戦という勇ましさ、だったりだ。

 

一瞬に賭ける花火のように、あの美しさは常であるなら成しえない。

 

一時だけに咲きほこる桜が何故にあのように美しいのかもそれであり。

 

それを感じるなら、

無常は無常であって良く。

無常のままに無常であり続ければ良く。

虚しさも寂しさも切なさを感じつつもそれはそれとして存在を許すことができ、

反面なる美しさ、素晴らしさ、力強さがあることを叡智として知るがゆえに放置し、

解放された心はすべてを包む。

生という幻想から覚めた

死後と呼ばれる己の念一つの世界では己が全てだ。

 

そのように変化、進化するチャンスは

普通の人なら中年から訪れている。

 

本心、深いところの自分にとって、

生まれた意味、生きてる意味、

生なる時の間に成すこと、

本当の目的をそろそろ成さねばならい時がこの時期だ。

 

例えるなら

子供の時に体験した夏休みと宿題。

夏休み残り一週間って感じが中年期。

あまり時間は残されていない。

 

スマホは置いて、心からひとり在れば

大事なことは全部自分が教えてくれる。